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香水をつけるかどうか迷っていた。化粧台に置いてあるそれを睨み付けるように眺める。目線の高さまで持ち上げるとピンクのボトルに入っている液体が揺れた。これは何という名前の香りだったか。…思い出せない。この匂いじゃ、キツすぎやしないだろうか。………分からない。

せっかく洋服が決まったのだ、つける香水だって慎重に選びたい。

何故なら今日は、

「縁寿? 準備まだか?」

声と共に部屋がノックされた。心臓が飛び出すかと思うくらいに、肩が跳ね上がる。

このまま何も言わないと扉を開けて入ってきそうな勢いだったので、私は慌てて声を張り上げた。

「…っ、もう少し待ってて!」

「分かった、じゃあ玄関で待ってるから」

早くしろよ。そう言い残して足音は遠ざかっていった。

ほっと胸を撫で下ろし、再びボトルと向かい合う。

香水は、つけないことにした。

(だって、お兄ちゃんはいつもの縁寿の方が好きだって、よく言う)

鏡の自分と向き合う。よそ行きの格好の自分と目が合う。…この服、似合ってるのかしら。こんなふりふりのかわいい服なんて、滅多に着ないもの。分からないわ。

せっかく元がかわいいんだから、縁寿。お洒落しなきゃ損よ。

これはお母さんの言葉。何週間か前の日曜日にショッピングに出掛けた時に言われた言葉だ。そしてその後に、これなんてどうかしら、と渡された洋服が、これ。私にはあまり似合わないと思ったけれど、試着室の前でお母さんが嬉しそうに、とっても似合ってるわなんて言うからつい、その気になってしまった。

なんだか恥ずかしくて、今までずっとタンスにしまっていたけれど。着るなら今日だわ、そう思い立った。

胸元のリボンを直して、軽く深呼吸。

大丈夫、と三回唱えて、私は部屋を出た。

* * *

私の足音に気付いてお兄ちゃんが振り返る。

「…縁寿。その格好、」

何かを言おうとしていたお兄ちゃんが、私の姿を見て、目を丸くして聞いてくる。顔が赤くなるのが分かった。思わず乱れてもいないスカートの裾を直してしまう。

「…………似合わない、かな?」

「いや全然! 見違えたなぁ縁寿! いっひっひ、思わず惚れちまうとこだったぜぇ…?」

何処までが本気なのか分からないその言葉に、どぎまぎする。これは俺もちゃんとした服を着てくるべきだったかねぇ…と私の頭を撫でながら呟く兄に、「お兄ちゃんは、そのままでいい」と言うのが精一杯だった。

「じゃあ、そろそろ行くか」

その言葉に答えようとしたら、声が上擦った。だから、こくんと頷く。今の私の顔は茹でダコよりも赤いかもしれない。

くしゃっと私の頭を一撫でしてからお兄ちゃんは、車を出してくるから、と玄関を出ていった。

(………ありがとうって、言いそびれちゃったな)

撫でられた頭をさすりながら思う。さっきのお兄ちゃんの言葉を思い出していると、今度はお母さんが、台所からひょっこりと顔を出した。

「あら、今からデートでもするの?」

「ち、ちちち違うもんっ! お兄ちゃんと一緒に買い物に行くだけ!」

お母さんが“デート”だなんて言うから、思わずムキになって声を荒げる。そんな私を見てお母さんは小気味良く笑った。

「くすくす、それを“デート”って言うのよ」

かぁっと顔が赤くなる。私ってばさっきからそればっかり。

すぐにお兄ちゃんが戻ってくるものだから、私は顔が赤いのを誤魔化すためにあたふたと動き回らなくてはならなかった。お母さんもお兄ちゃんも、それを見て楽しそうに笑っていた。

「せっかくのお休みなんでしょう? ごめんなさい、縁寿の我が儘に付き合わせてしまって」

「いーんですよ別に。クソ親父と違って休日にぐーたらすんのは俺の性分じゃねぇっすから」

それに、俺たちは家族だから。兄貴がかわいい妹の我が儘に付き合うのは当然っすよ。

その言葉を聞いてお母さんは一瞬驚いてから、柔らかく笑った。

「……戦人くん、縁寿を頼んだわよ」

「いっひっひ、じゃあこっちもクソ親父を頼んだぜ。カアサン」

二人で声を揃えて行ってきますと言って私たちは出発する。

扉を閉める前にお母さんが小声で囁いた。

「縁寿。その服、とっても似合ってるわ」

とってもうれしかった。

「それではお嬢さん、お乗りください」

「その言葉…ミスマッチだわ、お兄ちゃん」

「………こちとら安月給で汗水垂らして働いてんだ。車があるだけマシだろ?」

助手席のドアを開け、畏まったようにお辞儀をしているお兄ちゃんの肩を軽く押す。中古で買ったというその車は、所々塗装が剥げていて、…まあ、お世辞にもいい車とは言えなかった。ポンコツ車って言うとお兄ちゃんは怒るから、言わないけれど。

私が助手席に乗るのを確認してから、お兄ちゃんは運転席側に回る。そしていざ行かんとアクセルを踏んだが、車は一向に進まない。小刻みに揺れていた振動が止まるだけだった。

「あ、またエンストしやがったな、このやろう」

……やっぱりポンコツだわ、この車。

鍵を何度も捻り悪戦苦闘しているお兄ちゃんを見ながら、小さく呟いた。

しばらくそれを繰り返してから、車はやっと前進した。

砂利の多い庭を通って、道路に出る。ラジオのつまみを弄くりながら、気取った口調でお兄ちゃんが言う。

「お嬢さん、どちらまで向かいますか?」

「……どこでもいい。お兄ちゃんがいるなら、何処でも」

「了解。じゃ、今日はドライブと洒落込むか!」

「くすくす、お兄ちゃんの荒い運転で車が壊れなきゃいいけどね」

「うるせぇっ」

大きな声で笑い合う。こんなくだらないやりとりでも、楽しい。そう思うとき、やっぱり私、お兄ちゃんのことが好きなんだなって、胸のあたりがくすぐったくなる。

いつかはお兄ちゃんにも好きな人が出来て、やがては結婚して遠くに行ってしまうかもしれないけれど。……その時までは。

(私が側にいても、いいよね……?)

ラジオが無機質な音で、何処かの遠い国ではテロが頻繁に起きていることを告げている。ラジオによれば、流れ弾に当たって日本人の若い軍人がひとり、命を落としたらしい。きっと他にも、私たちがこうして笑っている間にも何千何万という命が奪われているのだろう。

……遠い世界の話だ。

現に私の家族はこうして生きている。戦争も殺人事件も事故も全部、ブラウン管の向こう側のお話。

だって、そんなしがらみとは無関係の世界に私の日常はあるのだから。

私の日常は、今日もそこそこに退屈で、楽しい。

特別でもない、何でもない1日がこうしてこれからもずっと続いていく。その日常の価値に私はきっと気付かない。ずっと気付かなくたっていい。

……だって、

「ねぇお兄ちゃん」

「ん? なんだ、縁寿」

お兄ちゃんの顔を見れば、声を聞けば……ほら、私はこんなにも幸せな気持ちになれる。

「…あのね、」

だからどうか、私のセカイが、壊されませんように。

「お兄ちゃん、だいすき」