朝の話

朝。

夜明けの少し前に目を覚ます。日が昇って、あと数時間もすれば今日も出勤時間だ。

あくびを噛み殺しながら軋む身体を起こす。固いマットレスや薄い毛布も、冷え込んだ夜のアスファルトに寝そべることに比べればなんて温かく、慈悲深いことだろう。

ざぶざぶと顔を洗いながら、はて今日はどちら様に向かえばいいのだろうか、と寝惚けた頭で考える。ああ、ああそうだ、確か右代宮の。そこまで思い当たって、クライアントである女の顔を思い出す。ひどく痩せこけていて、それでも瞳はぎらぎらと光り、いつも値踏みするようにこちらを睨み付けていた。あれは、人を信じない目だ。誰も愛せない、目。

あんな金持ちにはなりたくないもんだとつくづく思う。…まあ、金持ちになるつもりは毛頭ないのだが。人間、過ぎた欲を持つとどうにもがめつくなっていけない。多くを望めば、その分失うものも増えるというのに。人間はもっと、無欲であった方がいい。たとえば朝、目が覚めた自分が布団にくるまっているのを見て、幸福だと感じれるほどの。あたたかいご飯に手を付けて、幸福だと感じれるほどの。スプーン一杯の幸福で満ち足りるほどの。…人間は、無欲であるべきなのだ。

(……………あ、)

目が合う。鏡の自分がぎらぎらとこちらを睨み付けていた。誰も信じない目だ。あの女と同じで、誰も愛せない、目。

なんとなく、あの人が自分を嫌う理由が分かった。…気がする。

こうやって口の端を上げてみるとなるほど。あの人に見えなくも、ない。

頬に張り付いた髪を指で避けて、ぎらぎら光る目をじっと見詰めて、そいつに語りかけてみる。

「あんた、誰です?」

昔何処かで聞いたことがある。鏡に向かって毎日話し掛けていれば手っ取り早く狂えると。半信半疑だが、本当に狂えるのなら、面白い。狂ってしまえば、この世界も少しはマシに見えるだろうか。ただ、すぐに馬鹿らしくなってきて、鏡を一発殴ってやった。そいつはへらへらと笑うだけで、何も言わない。ああ醜い。醜い。今すぐあの目玉を刳り貫いてやりたい。だがそいつに爪を立ててみても、ぎいぎいと不快な音が鳴るばかりであった。

身支度を済ませ扉に手を掛けたところで、忘れ物に気づく。

真っ赤なバンダナ。洗面所に置き忘れたままであった。女々しいつもりはないが、これでも毎日身に付けてきた。身体の一部のようなものだ。

以前、クライアントのお嬢さん(大人びてはいるけど、年はきっと10より離れている。だからお嬢さん。)に「血の色のようで、嫌い」と言われたが、あのお嬢さん、知っているのだろうか。あんたの髪も、これと同じで血の色のようなんだ。今日、目が合って眉をひそめられたら言ってやろうかとも思ったが、やめた。

あの子はきっと知っている。だって、だから前髪をあんなに短く切っているのだろう。鏡を見ては泣きそうな顔をするのだろう。縋るように、ぼろぼろの髪飾りに手を伸ばすのだろう。

間近で見た彼女は、世間やワイドショーで騒がれていたどの人物像にも当てはまらなかった。それこそそこら辺の子供と何ら変わらない、ただ家族をなくした悲しみに押し潰されている、普通の少女だった。 (それを言うなら、あの人も。かつてはそうだったのかもしれない、なんて。)

情報なんて、いつだってそんなものだ。いつも世間が面白がるように真実が捩じ曲げられていく。隠されていく。

世間は時に彼女を魔女だ殺人犯だと罵るが、あのお嬢さんの方がずっと綺麗だ。あの人なんかより、俺なんかよりも、ずっと。

…そうだ。

今日はこっそり彼女に会いに行ってみようか。ちょっとからかうだけでいいから。いくつか言葉を交わすだけでいいから。

あの人と同じか、あるいはもっと酷い状況に置かれながらも、どうしてそんなに澄んだ目をしていられるのか、俺はそれが知りたい。

それに、あの人にねちねちとお小言を言われ続けるのにも飽き飽きしていたところだ。ちょうどいい暇潰しにもなる。

鏡に向かって、にんまりと歯を見せて意地悪く笑ってやる。

良かったな。

あんたの目玉を刳り貫いてやるのはまた今度にしてやるよ。

もうすぐ日も昇りきる。街ものろのろと動きだす。吐き出した息は、白い。

毎日毎日、黙って耳を澄ましてばかりじゃあつまらない。元々じっとしているのが苦手な性分だ。仕事はやっぱり、退屈じゃない方がいいだろう。

さて、あのお嬢さんに何と言ってからかってやろうか。

久々にガキ大将になったような気分になり、少しこそばゆくなって帽子を深く被り直す。

そして今度こそ、俺は薄暗く淀んだ部屋を後にした。

これは、思わず冬の足音が聞こえてきそうだった、そんないつかの朝の話だ。