半信半疑だった。
まさかこんな険しい雪山に3年もの間、ずっとこもっていた訳ではないだろうが、それにしたって。進むのもやっとなこの山に、本当にレッドはいるのだろうか?
目撃者であるヒビキ曰く、
『赤い帽子を被ったグリーンさんくらいの年の男の人でした。身長は僕よりちょっと高いくらいで。それで目が合った途端にいきなりバトルが始まって! もうめちゃめちゃ強くて怖かったんですよ死ぬかと思いました! なんとかギリギリ勝ったんですけど…勝負が終わったらその人どうなったと思います? 消えたんですよ!? パーッて!!』
……だそうだ。
本人は疑う俺に何度も何度も「本当なんです!」と繰り返していた。一応その対戦相手の手持ちを確認してみたら3年前のレッドの手持ちと重なってはいたが。正直、勘違いの可能性も捨てきれていない。
だいたい、目の前で消えるってなんなんだよ。
まあ、だからその真偽を確かめるために、俺はここにいるんじゃないのか?
流れ込む冷気を遮るように、コートの前をかき合わせる。いつの間にか、足元にはうっすらと雪が積もるようになっていた。
何も言わずにジムを抜け出しシロガネ山を訪れてから、既に数日が経っていた。度重なるジムの抜け出しについて、この間協会から厳重注意を受けてしまったので、そろそろ戻らないと仕事に差し障ってしまう。今日の捜索で最後にしなくてはいけないだろう。あいつを見つけようが、見つけまいが。
そこまで考えて、自分が今までかなりの時間を割いてレッドの捜索にあてていたのだと気づく。
「はっ……レッドの野郎ごときに、何を必死になってんだか……」
ずっと、あいつには敵わなかった。一度も勝てやしなかった。それが悔しくて、悔しくて。
3年前の、チャンピオン戦であいつに負かされた時も、俺は何か言いたげだったレッドを押し退けてリーグを飛び出したんだ。
……それっきりだ。
それっきり、あいつとは会っていない。おばさんの話によれば、レッドはマサラの家にすら帰っていないという。だから記憶の中のレッドの姿は、ずっと3年前のまま。だがそれすらもどんどん薄れていく。今ではもう、あいつの笑った顔が思い出せない。
あいつに関してはっきりと覚えているのは、勝負に負けた時の、胸が抉られるようなほどの悔しさだけだった。それは3年経った今でも色褪せることなく、今の俺を突き動かしている原動力でもあった。
信頼出来る仲間たちと共に次こそ頂点に立つあいつに勝つことが、俺の目標になっていた。その為の努力なら、惜しまなかった。
でも、いくら強くなっても。あいつより勝っているという実感は持てないままでいた。差は埋まるばかりか、広がってしまっているような気さえした。
やがていつしか、レッドは伝説とまで噂されるようになり、誰の手も届かない存在になってしまった。最年少のチャンピオンにして未だ無敗。行方をくらましている今じゃ誰も勝ちようがなかった。あいつが勝って、俺が負けたという事実も、いつまでも変わらなかった。
レッドの奴を取っ捕まえたら、今度こそ勝負に勝って、その伝説とやらをぶち壊してやる。
そう、決めたのに。
「……それなのに、俺以外の奴に先に負けてやがるなんて、冗談じゃねーぞ」
苦笑混じりに呟いた言葉は、白く染まり、やがて空気に溶けていった。
岩の斜面を登りきったら、やけに開けた場所に出た。
シロガネの名に相応しく、白銀の広がる頂上。
そこはとても静かな場所だった。風の凪ぐ音と、自分の足音以外には、何の声も聞こえやしない。
寂しい場所だった。
いちばん高い場所まで上ると、カントーからジョウトまで見下ろすことが出来た。雲の上からその光景を覗いていると、まるで自分が天にでもいるんじゃないかと錯覚してしまう。
でも、それだけだ。それ以外には何もなかった。
果たして、そこにレッドはいなかった。
「は………はは、あれだけ念を押しときながらやっぱりハッタリだったじゃねぇか、ヒビキの奴め」
全身の力が抜けて、そのまま倒れ込む。首筋や背中が雪で濡れて冷たかったが、それを気にする余力はもう残っていなかった。
どこを探したって、レッドなんて見つかりやしない。
レッドはもう俺たちの手の届かないような遠い場所まで行っちまったのかもしれない。そもそも、レッドなんていう幼馴染みがいたという感覚さえ、疑わしく思えてきた。本当に、レッドは存在したのだろうか?
もしかしたら、ヒビキの奴が言ってたみたいに、本当に消えちまったのかもなぁ……
…もう、どうでもよかった。
夜通し歩き続けて、どっと疲れた。
……なんだかとても眠い。
少しだけ、休ませてくれ。
すぐ、起きるから。
ああでも、このまま雪が積もったら、もしかしたら俺は、死ぬかもな……
そんな考えが頭を過ったが、すぐに、微睡む意識と共に深く深く沈んでいった。
………あたたかい。
ばちんと薪の爆ぜるような音がして、目が覚めた。
ぼんやり白い視界の中に、ぬっとオレンジ色の物体が現れて、こちらに近づいてくる。だんだんピントが合ってきて、ようやくそれが何であるか分かった。何やら心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「リザー、ドン…?」
「感謝しろよな。僕が見つけてやらなかったらお前は今ごろ凍死体だったんだから。………全く、吹雪く山頂で爆睡だなんてここに住むリングマだってやらないよ。馬っ鹿じゃないの?」
「………………え、」
ここには、俺以外には誰もいないはずだった。
起き上がって声のする方を向くと、リザードンの尻尾の炎を使って暢気にきのみを焼いているそいつがいた。目が合うと、すました顔で、そいつは挨拶でもするみたいに片手をあげる。
「やあ、グリーン。前から馬鹿だとは思っていたが、どうやら君は3年も会わない間にますます馬鹿に磨きがかかったみたいだ」
俺はますます目を丸くするばかりだった。
「………お前、レッド…だよな? どうしてここに、」
「………何だよ、幽霊でも見たような顔して。いちゃ悪いか?」
「…いや、」
「僕だってびっくりしているんだからな。人の特等席に見覚えのある奴が大の字で眠りこけていたんだから。おまけにピカチュウの電撃でも起きないときた。二重でびっくりだよ」
言いつつレッドはリザードンにお疲れ様と声を掛け、喉元を一撫でしてからボールに戻す。淡々とした物言いからは、あいつがびっくりしている様子にはとても見えなかった。
固まったままの俺に向かって、先ほど焼いたらしいきのみを2つに割り、小さい方をこちらに投げて寄越してくる。どうやらがめついのは相変わらずのようだ。
ほくほくときのみを頬張りながら、あくまでもマイペースにレッドは訊ねてくる。
「お前、何だってわざわざ雪山登ってまでしてこんな所に来たんだ?」
「お前を、捜しに」
「……へぇ。よく、僕がここにいるって分かったな」
「ヒビキが言ってた」
「あ、そっか。……で、こうしてめでたく僕と再会した感想は?」
「…………いや、なんて言うか、」
「なんだよ、グリーンのくせにもごもごして気色悪いなあ。はっきり言えよ」
「ヒビキの奴に負けて、もっと、落ち込んでいるのかと思った」
「……………」
ひとつ、ふたつ。静かに瞬きをして、レッドは残りのきのみを口に含んだ。それをのみ込むと、「ああ、そんなこと」と、ひとり頷いて、笑う。嘲笑でもなく自虐でもないそれは、すっきりとした、吹っ切れたような笑みだった。
「それだからグリーンはいつまで経っても2番手なのさ」
そしてビシッと人差し指を突きつけられて、宣言された。
2番手、と言われてカチンときたが、気にも留めずにレッドは続ける。
「確かに、負けたその時は悔しかったよ。本気で挑んだら僕が負けるはずがないって思ってたからな。でも、僕はそれ以上にヒビキとのバトルがすごく楽しかったんだ! そして、ヒビキが今の自分じゃ本気で挑んでも勝てない相手なんだって思ったら、なんだかワクワクしてきた! ……だから落ち込むワケないよ。もう一度ヒビキに会えないかなって、そしたら今度はどう戦おうかなって、今はそればっかり考えてる」
本当にうれしそうに語るその姿を見て、思う。
……ああ、やっぱこいつには敵わねえなあ。
今までただ気に食わないと思っていたけど、こいつがチャンピオンになれた理由が、伝説と呼ばれるようになった理由が、今なら分かる気がした。
「あ、今僕のことを羨ましいって思ったでしょ」
「ばっか、別に思ってねぇよ」
「またまたぁ。グリーンてば相変わらず嘘つくのが下手なんだから。ホラ、素直に言ってごらんよ、羨ましいですって」
「誰が言うか」
そんなこと言っちゃってーと、いたずらっぽく笑いながら肘でぐりぐりと押してくる。あんまりにもしつこいのでデコピンを一発お見舞いして黙らせた。
「ったぁ……何もぶつことはないだろ……」
「今のは明らかにお前が悪い」
全く羨ましくないと言えば嘘になるが、不思議と、以前のような、チリチリと胸に刺さるような羨望や対抗心は感じられなかった。3年前は、俺もまだまだガキだったってことをしみじみと感じる。
「でもさ、本当のこと言うと、僕、グリーンが羨ましいよ」
額をさすりながら、ぽつりと、レッドは言った。俺は、耳を疑う。誰が、誰を、羨ましいって……?
「だって、グリーンは、悔しさを努力に変えることができる。己の弱さと向き合うことができる。そして、自分が今、どうするべきか、道がしっかりと見えている。……僕にはね、それが出来ないんだ。分からないんだよ。……チャンピオンになってからは、負けるのが怖かったんだ。いつも怯えながら戦ってた。でも、そんなの、僕が望んでいたものとは全然違くて、そしたらだんだんチャンピオンでいることが、怖くなって……。だからワタルさんにどうしてもって頼みこんでチャンピオンを引退させてもらったんだ。……怒られるかなって思ったけど、ワタルさん、怒らなかった。「世界は君が思っているよりもずっと広い。そして、君にはまだ時間がある。だから、こう考えてみればいい。ここが旅の終わりじゃなく、新しい旅の始まりなんだって」そう言って、優しく背中を押してくれた。でも、故郷に帰ったとして、母さんになんて言えばいいのか、言わずに旅に出るにしても、どこへ向かえばいいのか、分からなくなって、どうしようもなくなって、ここに逃げてきたんだ」
負けるのが怖い。それは、自分が弱いということを認めなければならないということだから。
ノープランのまま旅に出るには不安が多すぎて、でも、プライドが邪魔をして、「故郷に帰る」という選択肢すらも消してしまって、僕は完全に身動きが取れなくなっていた。3年の間、ずっと、シロガネ山から動けなかった。
そこで、ヒビキに会った。
迷いを断ち切るためのバトルだった。全力で挑んだ。それでも、僕は負けたのだ。
「僕はそこでようやく、認められたんだ。僕はまだまだ全然強くなんかなかったって。世界にはもっと、強い奴らがいるんだって」
「僕にはこうまでしないと気づけなかったことを、グリーンはずっと前から知ってたんだ。それって、すごいことだよ」
「おい……それは、俺を褒めてるのか? 貶してるのか?」
「え、何で?」
「そもそも! 俺は。お前に負けるのが何よりも悔しくて、お前より弱い自分が嫌で、だから、今までずっとーー、」
言いかけて、もしかして自分は何かとてつもなく恥ずかしいことを言ってしまうのではないか、という気がして、慌てて口をつぐんだ。レッドは、それ以上は聞いてこなかった。
代わりに、洞窟の中へと入り、寝袋を敷き始める。
「僕は、夜が明けたらここを発つけど。グリーンはどうするの? いつ戻るの?」
「……マサラには、帰らないのか?」
「うん。ヒビキとのバトルで決心がついたから。今日のうちに準備も済ませたしね」
「……そうか。お前、頑固だから、一度決めたら絶対に曲げないよな」
「うん」
「しばらくは帰ってこないんだろ?」
「うん。自分が満足するまでは帰らないつもり」
「どうせポケギアも持ってないんだろ?」
「うん。麓のポケセンのジョーイさんからもらった古いラジオならあるけど」
「じゃあ、今しかないワケだ」
「なにが、」
レッドは言いかけて、でも、俺の手にしたモンスターボールを見て、俺がこれから何をするつもりか察したようだ。にやりと、笑みを浮かべる。
「へぇ、雪辱戦ってワケ? 言っとくけど、僕、まだまだグリーンに負ける気はしないよ?」
「ハッ! 言ってろよ、俺だって、いつまでも昔のままじゃないんだってことを見せてやるよ」
いつかのバトルを思い出す。あの時の俺は、強さに自惚れていた。でも、今は違う。勝てるかどうかなんて最後まで分からない。仲間と積み上げてきた3年間の全てをこいつにぶつけて、全力を出し切るまでだ。
「僕はグリーンに勝って、そして前に進むよ」
「ならば俺はお前に勝って、マサラに連れ戻すまでだ」
言葉よりも何よりも、俺たちが分かり合うには、お互いが納得するには、もはやこれしかないのだ。
「いけ! ピカチュウ!」
「いけ! ピジョット!」
いつかのバトルのように、俺たちはぶつかり合う。ひとつだけ違うとするならば、それは、俺たちが心の底からバトルを楽しんでいたということだ。
最後の力を振り絞ってのウインディの攻撃を間一髪で避け、リザードンはとどめの一撃を喰らわす。ウインディにはもう、立ち上がる力はなかった。
「お疲れ。ありがとう、ウインディ」
傷だらけのウインディをボールへと戻す。手持ちにはもう、戦えるポケモンはいなかった。負けた。俺はまた、こいつに勝てなかったのだ。
「だああああああチクショォオオッ!! 悔しいッ!!!!」
腹の底から叫んだ。悔しい。すげぇ悔しい。でも、心の中は何故か、すっと晴れわたっていた。
「まだまだだね……と言いたいところだけど、僕も危なかったな……もうちょっと長引いてたら、負けてたかも」
終始余裕そうに見えたレッドも、結構追い詰められていたらしい。あと、一歩。確実に、追いついてきてる。
「次は負かす。ぜってぇ負かす」
「でも、旅から帰ってきたら、僕はもっともっと強くなっちゃうかもよ?」
「じゃあ俺はその何倍も強くなる!」
「じゃあ僕はその何十倍も強くなる」
「なら俺は何百倍も強くなる!」
「あはっ」
「ふはっ」
顔を見合わせ、どちらからともなく声を上げて笑った。こいつが俺のライバルで良かったと、その時、心から初めてそう思えた。
ひとまずポケセンに行こうという話になり、俺は空を飛ぶためにピジョットを出そうとした。しかし、それをレッドに遮られた。
「ピジョットはさっきのバトルでだいぶ疲れているから、霰の中を飛ぶことは無理だと思うな。それに、まだ空が暗い。視界がきかないよ」
「……なんだよ。じゃあ野生のポケモンとも戦えないこんな状態で、徒歩で下山しろってか」
「ううん。もっといい方法があるよ」
そう言って、リュックを漁って取り出したのは、あなぬけのひもだった。懐かしい。あんなの、旅に出なくなってから久しく見ていない。
「実は昔大量に拾ってたのがまだ残っててさ。これ、すごく便利だよね。仕組みはよく分からないけど、一瞬で出口まで連れてってくれるから」
「あー……」
その発言からひとつ、思い当たるものがあった。ヒビキの「消えた」というあの証言。
「お前、それのせいでヒビキからだいぶビビられてるぞ」
「え、何それ聞いてないよ」
「俺もレッドに会ったとき、最初は幽霊なんじゃないかと思ったしな」
「ちょっとひどい! 勝手に殺さないでよ!」
「そもそも連絡を寄越さないお前が悪い。たまにはおばさんに便りくらい送ってやれよ。心配してんだから」
「う、それは……忘れなければ、」
「この親不孝ものの筆不精が」
「うう、何もグリーンががみがみ言うことじゃないじゃんか……」
「俺が心配なんだよ! それくらい察せよ、馬鹿」
「え?」
「あ、」
にやあっといたずらっぽい笑みを浮かべたレッドが何かを言ってくる前に、その手からあなぬけのひもを奪って、さっさと下山する。その瞬間にわずかに聞こえた「ありがとう」には、聞こえないふりをした。
うっすらとした暗闇の中、空気は凛としていて冷たい。そこに一筋の光が差し込み、辺りを照らし出す。
夜が、明けようとしていた。
この雪がとけたら
(きっと春がくる)
