「それじゃあみんな、サッカーやろうぜ!」
円堂守の掛け声を合図に、全員がグラウンドに散っていく。どの顔にも、笑顔。さっきまで敵対していたのが嘘のようだ。ダークエンペラーズと名乗った奴らたちも、少し躊躇いながらも、以前のように楽しそうにボールを追いかけている。
そんな風景を、屋上から、じっと見下ろしていた。たくさんの頭から見知った顔を探す。いつもそうしてるから、すぐに見つけられるようになった。マフラーを外した兄ちゃんは、何かが吹っ切れたみたいで、あの頃のように、心から笑っていた。……兄ちゃんのことが心配で思わず様子を見にきたのだけど、あの様子なら、大丈夫そうだ。そろそろ帰ろうかな、と思ったその時。グラウンドの隅に、ぽつんと、ひとりだけ座り込んでいるヤツが目に入った。雷門のユニフォームを着ているそいつは、みんなの中には入ろうとせず、頬杖をつきながらぼんやりとグラウンドを眺めていた。……別に、あれは兄ちゃんじゃないし。放っておいても全然構わなかったのだけど、そいつが首に巻いていたのが、とても、とても見覚えのあるマフラーだったから。オレは、そいつに話しかけるために下に降りることにした。どうせ見えやしないだろうと、真正面からそいつの顔をじろじろと覗き込んだ。そいつが首にしているマフラーは、やっぱりオレのマフラーで、目付きは鋭かったけれどもどことなく兄ちゃんにそっくりだった。
「それだけ堂々とされて、何も見えない方がおかしいだろ」
どうやらそいつは、オレが見えるらしい。不思議なことも、あるもんだ。
舌打ち混じりにしっしっと手を振られたので、仕方なくそいつの横に座る。乱暴な言動は、兄ちゃんとは似ても似つかなかった。
「お前、さっきからオレのことチビチビ言ってるけどな、オレはチビって名前じゃないぞ。父さんと母さんがくれたアツヤって名前がある!」
話をしている間、ずっとチビ呼ばわりされるのはさすがに我慢ならない。ムッとして顔を上げたら、そいつと目が合った。目を丸くして、こちらを見ている。
「…………奇遇だな。俺もアツヤって名前があるんだ」
しばらく、お互い何も喋らなかった。二人でじっとグラウンドを走り回る兄ちゃんたちを見ていた。兄ちゃんが怖い顔のヤツからボールを奪う。そして、スルーパス。ツンツン頭のヤツにパスが回って、ゴールが決まる。
思わずガッツポーズを取った。何気なく隣を見ると、オレと同じ名前のそいつも、ガッツポーズをしていた。
気まずくなって、どちらからともなく、静かに腕を下ろす。そいつは、何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局何も言わないで舌打ちするだけだった。
「ったく染岡のヤツ、フェイントもしねぇでまっすぐ突っ走りやがって。動きが単純過ぎるんだよ…だから兄貴にすぐボール取られちまうんだ」
それからといいうものの、ブツブツと何か言いながら、そいつは試合に見入っていた。オレのことはすっかり眼中にないのか、こちらがじっと顔を見つめていても気づかないようだった。そいつは、ボールの動きや選手の動きに合わせて、一喜一憂し、もどかしそうにうずうずと身体を動かしていた。そのまま今にも走り出しそうな勢いだ。…….なんだ、こいつもちゃんとサッカー好きなのか。だったらどうして、こんな場所にひとりでいるんだろう。
「あのさ……お前、あいつらとサッカーやらないのか?」
橙色の鋭い瞳が、じっとこちらを見下ろす。何かを見定めているかのような目だ。少し怖気づいたけど、オレは、それでも目をそらさないでそいつを見上げていた。先に目をそらしたのは、向こうだった。癖なのか、また舌打ちをしていたが、もうそいつから敵対心は感じられなかった。
「……お前、本物のアツヤだよな。話には聞いたことあるぜ」
「ホンモノってなんだよ? お前だってアツヤだろ?」
でも、もうじき消える。ぐっと、そいつはマフラーを掴んだ。あの頃は真っ白だったマフラーも、今ではくすんだ色をしていた。それだけ長い間、兄ちゃんはマフラーを手離さなかったんだと、改めて思い知る。
「お前がいなくなった後、兄貴のぽっかり空いちまった穴を埋めるために、俺は生まれたんだ。アツヤの名前も、弟って役目も、FWって役目も、全部、兄貴がくれたものだ。全部、お前のお下がりだ。笑っちゃうよな。兄貴はな、ずっと、俺じゃなくて、俺を通して俺じゃないアツヤを見ていたワケだ。……でもまあ、俺の役目は終わったみたいだし。最後に記念試合でも見届けてから、消えてやろうかなって思って。だから、せっかくの兄貴の晴れ舞台なのに、俺が出しゃばるわけにはいかないだろ?」
言っていることは難しくてほとんど分からなかったけれど、このアツヤが、俺がいなくなってからずっと、兄ちゃんの側にいてくれたんだということは、なんとなく分かった。兄ちゃんが新しい技で、シュートを決めた。昔俺と二人で考えてた、あの技だ。
みんな口々にそう言って、肩を組んだりハイタッチしたりしている。兄ちゃんも、みんなに囲まれて、満更でもなさそうに笑っている。
「お前も見てて分かるだろ? …兄貴はもう、ひとりじゃない。ちゃんと、自分の居場所を見つけたんだ。俺も、安心していなくなれるってもんだ」
「さぁな。俺はもうこれからのことを心配する必要ないからな。ようやく、あいつの世話焼きからも解放されると思うと気が楽だぜ」
「勝手にいなくなるとか言ってるけどな、兄ちゃんがひとりぼっちじゃなくなっても、お前がひとりぼっちだったら、意味ないじゃん」
そいつの胸倉までは手が届かない。だから、ギリギリ届いたマフラーを思い切り引っ張ってやった。
「あいつらと、サッカーしたいんだろ? だったらやってこいよ。お前はまだ、ちゃんとここにいるだろ? 生きてるだろ? だったら最後の最後まで兄ちゃんと一緒に、思いっ切りボール、蹴ってこいよ」
アツヤは、弾かれたようにグラウンドへと駆け出していった。その時、軌道がそれたサッカーボールが、アツヤの目の前に飛んできた。でもスピードを緩めることなく、アツヤはボールに向かって走っていった。アツヤが真横をすり抜けていっても、誰もアツヤに気づかなかった。ただ、通った道だけ、風が吹いたように揺れた。アツヤはまるで、風のようだった。アツヤは大きく息を吸い込んで、腹の底からあらん限りの声で叫んだ。叫んだ。
そして……、グラウンドの中央からゴールめがけて、まっすぐに氷の道が伸びていた。ボールは、ゴールネットを突き破らんばかりの威力で力強く突き刺さっていた。そのボールが、重力に負けて、キーパーの足もとへ転がる。沈黙。何が起きたのか、みんな、分からなかったみたいだ。
「すっ……げぇええっ!! 今の、エターナルブリザードだよな!? すっげぇ威力だったな!! 吹雪が打ったのか?」
誰も動けない中、円堂守が、いちばん最初に動き出した。
兄ちゃんの手を取りぶんぶんと振って、目をキラキラと輝かせていた。
兄ちゃんはワケが分からないといった顔で首を振っている。当の本人であるアツヤは、その横で満足そうに、笑っていた。
これで、心配事はなくなりそうだ。オレは、アツヤに向かって、ぐっと親指を立てた。
試合後、スカウトされてた兄ちゃんたちは、それぞれの故郷に帰るために、キャラバンの中にいた。流石に何試合もやって疲れたのか、兄ちゃんはぐっすり眠っている。アツヤとオレは、通路側からその寝顔を見ていた。
「こいつ、幸せそうな顔して涎なんか垂らしやがって…」
「だって、お前がいなくちゃ、兄ちゃんは今、こうして笑っていなかったかもしれないだろ。だから、ありがとう」
上げかけた手をそのままに、アツヤがぷっと吹き出した。
「だって母さんが、オレたちは静かに眠るだけだよって。兄ちゃんがくるその時まで、静かに静かに眠ってるんだよって。……まあオレは途中で叩き起こされたんだけどね」
「ふぅん。じゃあ、今度はぐっすり眠って良い夢が見られるといいな」
「うん。アツヤの場所も、ちゃんと空けておくから、心配しなくていいよ」
「ばっか。俺は兄貴とふたりでひとつなんだから、必要ないだろ」
「そっか。じゃあ、オレが、アツヤのこと、忘れないでおく」
「…俺も、アツヤのこと、覚えておいてやる」「それじゃあ」
肩を揺すられて、はっと目が覚める。どうやらボクは、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。窓の外には、見慣れた白い景色が何処までも何処までも続いている。
荷物を確認しようと、寝ぼけ眼のままスポーツバッグの中身をがさごそと漁る。ふと、手が止まる。「…どうしたんだ?」「いや、なんだかとても幸せな夢を見てたなぁと思って」「へぇ、どんな?」
「うーん…と。…………あれ、忘れちゃった」
「ははっなんだよそれ」
でも、とても、幸せだったんだ。
それだけは、確かに覚えてる。
「ねぇ染岡くん」
「ん?」
「また、みんなと一緒にサッカーできたらいいね」
「“できたら”じゃなくて、やるんだろ? 円堂風に言うなら“サッカー続けてれば俺たちはきっとまた会える”だ。俺は続けるぜ、サッカー」
「……そう、だね。うん、ボクもサッカーはやめないよ」
だからきっと、また会えるよ。
それに応えるように、やさしく風が吹いた気がした。