「ハッピーバースデーお嬢〜」
リビングに入るやいなや、朝の挨拶にふさわしくない賑やかな歌声に出迎えられた。少々寝不足気味でぼやけていた頭が一気に冴えていく。朝日を十分に取り込んだこの部屋は明るく、テーブルのど真ん中にこれ見よがしに置かれているホールケーキが嫌というほどに目についた。そのさらに奥へと視線を向ければ、ニッカリと笑顔を崩さない、見慣れた男が意気揚々と、誰もが一度は聞いたことがあるだろう定番の曲をそれはもう自由に歌い続けている。
彼がひと通り歌い終えるまで私はその場から一歩も動けずにいた。
感動したから?
彼が思いの外調子外れな歌声だったから?
絶対に食べきれないサイズのホールケーキなんて用意して、後始末をどうするのか嘆いたから?
どれも違う。
「悪いけど、今日じゃないわよ……私の誕生日」
「もちろん。知ってますぜ。だって当日、高熱出してぶっ倒れてましたもんね。もう大変だったんですよ、看病するの」
当然のごとくそう返されてはぐうの音も出ない。
彼の言う通り、誕生日だった六月十七日、私は高熱を出して床に伏したまま数時間、一歩も動けずにいた。元々季節の変わり目は体調を崩しやすかったが、そこに連日の不摂生な生活が祟ったのかもしれない。実際、食事の時間だからと天草が家まで来なかったらもっと症状を悪化させ弱り切っていただろう。しかし、合鍵を渡しておいてよかったと思うのはきっと後にも先にもあの時だけだろうと、朝っぱらから賑やかなこの男を見て強く思う。
「じゃあ、この馬鹿でかいホールケーキは一体何?」
誕生日はとうに過ぎている。当日はてんやわんやしていたが、彼からお祝いの言葉も既にもらったのだ。それなのになぜ今になってケーキなのか。 先に言っておけば、私も天草も、どちらも甘党ではなく、ケーキは食べるが特別好きなわけでもない。こんなホールケーキなど、二人では到底食べきれないのだ。
「やっぱり、誕生日と言ったらケーキでしょう? お嬢もこうして元気になったことですし、改めてお祝いしましょうよ」
相変わらず軽薄な笑みを浮かべている天草は、そんなことを抜かしながらはやくはやくと椅子を引きこちらへくるよう手招きしている。これは言うとおりにするまで収まらないだろうことは分かりきっていたので、私は招かれるままに渋々と椅子に座った。
「はい、じゃあこの帽子もどうぞ」
天草は当然のように、私の頭の上にいつかどこかで見たようなとんがり帽子をちょんと置いた。
「何よこれ!」
「お似合いですぜ」
揶揄っているのかと睨みつけたが、存外ご満悦な様子で天草は蝋燭に火をつけていく。今どきこんなものどこから調達してくるのやら……ひとまず、天草がひとりせっせと準備を進めていた姿を想像しほくそ笑むだけで許してやることにした。
「蝋燭の本数、年齢聞くと怒るんで末広がりな8本にしてみました。縁起がいいでしょう?」
まあ、聞かなくても知ってますけど。
どうしていちいち余計な一言を言うことをやめないのだろうか。文句を言う代わりに近くにあった脛を蹴飛ばしてやると大して痛くもないだろうに「いて」と天草が鳴いた。
ゆらゆらと灯りがゆらめく8本の蝋燭も、こんなに陽の光が差し込むような明るい部屋ではムードも何もない。
というか、私は寝起きの朝一番にこのケーキを食べなくてはならないのだろうか……。
「ほらお嬢、フーッて。フーッてしないと」
そんな私の心配はお構いなしに、背後に回った天草がはやくはやくと急かしてくる。私は言われるがままに蝋燭の火に息を吹きかけ消していく。
最後の一本が消えると、頭上から「はい、おめでとうございます〜!」と、ひとりぶんの拍手が降り注いだ。
……誕生日ではないのだが、こうして手放しに自分のことを祝われるのはなるほど、悪い気はしないものだ。
「じゃあ、こちらのケーキは冷蔵庫にしまっておきますね」
「えっ、ケーキ、食べないの?」
「流石に朝一でケーキは重いでしょう。まあ、デザートは別腹とかお嬢がどうしても朝から食べたいとか仰るのであればご用意いたしますが」
「……いえ、大丈夫。あとで食べるわ」
そう返事するや否や、テキパキと持ってきたであろう箱にケーキがしまわれていく。この男はいつも準備から片付けまでとにかく手際が良い。まだ先ほどの歌の余韻が残っているのか、鼻歌まで聞こえてくる。彼が好きでやっているのだから、わざわざこちらが手を出す必要もないだろう。私は冷蔵庫に消えていくケーキの箱を座ったままぼんやりと眺めていた。
壁時計に目をやれば、寝起きで突然ハッピーバースデーを歌われてから5分と経っていなかった。蝋の燃えた後の独特な臭いがツンと鼻をつく。
「嘘みたいな時間だったわ……」
「……そこは『嘘』じゃなくて、『夢』とか『魔法』って言ってくれてもよくないですか?」
「あんたのは『嘘』くらいがちょうどいいのよ」
そう言うと、もはや耳に馴染んでしまったお決まりの台詞を吐きながら、天草がコーヒーを差し出してきた。部屋に漂う甘い香りを打ち消すようなブラックコーヒー香りが、今が間違いようもなく現実であるのだと教えてくれる。
ズレて落ちかけていたとんがり帽子を脱いでテーブルに置けば、お終い。いつもの朝だ。
「朝食、今日は俺もご一緒しますね」 そう言って天草はまたテキパキと準備をし始めた。あらかじめ作っておいたのだろうか、二人分のサンドイッチと目玉焼きが手際良くテーブルに並べられていく。こんな手の込んだ朝ご飯は、ひとりだとなかなかお目にかかれない。少なくとも、家庭科2の私とは全く縁のない献立である。 朝食まであるだなんて、一体彼はあの5分の『嘘』のためにいつからキッチンで準備をしていたのだろう。
私が訝しげな顔でじっと顔を眺めていることに気づいた天草は「ああ」と思い当たることがあるかのように言った。
「今日は張り切って準備したんですよ。こういう朝も、たまには良いでしょう?」
たまには良いのかもしれない。天草の良いところは、人並みに料理が出来るところだと思う。今度から料理も依頼内容に追加してみようか。
朝からこの男と過ごす風景にはまだ慣れなかったが、朝食はとても美味しかった。
先ほど「いつもの朝だ」と思ったが、今日はいつもの朝より少し豪華であったことを、ここに付け加えておこう。
朝食も終えて、静かになればなるほど思い出すのは今や冷蔵庫の大半を占拠しているあのケーキのことだ。忘れかけていたが、あれをこれから消費するのは紛れもなく私と、それと主犯のこいつだけなのだ。量もそうだが、いかにもな砂糖の塊を食べるにあたり、カロリーが心配である。
「食べ切れるかしら……」
しみじみと、これから酷使するであろう胃腸を労りながら呟けば、明朗な声で天草が言う。
「まあなんとかなりますって。なんならあのままフォークを突き刺してがっつり食べてみます? そういうの、一度はやってみたくありません?」
「……嫌よ。はしたない」
「堅苦しいことは一旦忘れましょうよ。……年に一度のお祝いの日くらい、はしゃいで羽目を外したって、誰も怒りやしないと思いますけどね。誕生日ははしゃいで喜ぶもんですよ」
「そういうものかしら」
「そういうもんです……まあ、今日は誕生日じゃないですけどね」
そう付け加えると、天草はまたケラケラと笑うのだった。
ひとしきり笑い終えると満足したのか、天草はぬるくなったブラックコーヒーを飲み干した。その顔は、いつかの彼がよく浮かべていた、悪戯が成功した時のように満足げだった。天草が目を細めて尋ねる。
「……お嬢は楽しかったです? 誕生日」
あれは誕生日会と呼べるほど特別でも何でもない、ただの寝起きドッキリに過ぎない。早朝から実に良い迷惑だ。しかし、確かに、胸の辺りがじんわりとあたたかくなるようなむず痒さを感じたのも事実だ。
……改めて、そう聞かれると、なんとなく気恥ずかしくて答えに詰まってしまうのだが。
「ええ。とても」
今はそう答えるのがふさわしい気がした。
その後、夢のホール食いを実現させ、しかしほんの数口で胸焼けになったことは、また別の話である。
ケーキは、食べた分は美味しくいただいたが、残りの大半は天草の胃袋へと消えていったような気がする。
食べた食べたと、満足そうにお腹をさすりながら、天草が私に微笑んだ。
「来年はぜひ、当日にやりましょうね」
「……考えておくわ」
とにもかくにも、しばらくは、甘いものはお腹いっぱいだ。
