目の前で静かに寝息を立てる彼女。俺はその姿を見下ろしながら、立ち尽くしていた。
まるで死んだように眠っている。だがその首に指を這わせれば、皮膚越しに彼女が鼓動しているのを感じられる。
………ああ、まだ生きているのかと、漠然と考えた。
「お嬢、」
肩を軽く揺すり、呼び掛けてみる。
僅かに瞼が震えた。けれども彼女は目覚めない。むず痒そうに肩を掴む手を払い、こちらに背を向けるように寝返りを打ってしまった。
仕方なく起こすのを諦め、タオルケットを引っ張りだしてきてその身体に掛けた。
「そこは俺のベッドなんですがねぇ……」
今はただ大人しく、眠り姫が自力で目覚めるのを待つとしよう。
改めて、じっくりとお嬢を観察してみる。だがつねったり撫でてみたり、何をしようが彼女は一向に目覚めない。
……なんて無防備な姿だろう。
どうして、無償で俺を信用できるのか。俺を疑おうとしないのか。不思議でたまらない。たとえ面識があったとしても、金だけの薄っぺらい繋がりしかない俺に、絶対に裏切られないという自信でもあるのだろうか。
なんてこった……俺はいつの間にか、彼女にこんなにも信頼されてしまったのか。
きっと彼女は、夢にも思わないのだろう。例えば俺が、その白い首に両の手を重ねてみても。一分の疑いもなく、純粋な瞳を俺に向けるのだろう。
「…………あんたは、本当に。馬鹿なお人だ」
妙なところに馬鹿正直で、それでいてひねくれていて。口からはいつもでまかせばかり。
だからこんな奴に目をつけられるんだ。
「……ホントに、………」
嘲り笑おうとしたが、上手く笑えない。口元がイビツに歪んだだけだった。
馬鹿で、生意気で、考えなしで、素直じゃなくて、そのくせ頑固。見ていると苛立たしくさえなる。
…だがそんな彼女の側にいるのが、いつの間にか心地良くなってしまったのは何処のどいつだ……?
本当に馬鹿なのは、どっちだ?
その考えを振り払うように、首を振った。そんなことはもう、関係ない。旅の終着になれば、もう。そんな考えは、全く意味を為さなくなるのだから。
……俺は知っているのだ。
彼女が旅の終着点で出くわすだろう最大の不運を。
そして俺は委ねられている。
彼女の、運命を。
彼女の旅の終着はもう、すぐそこまで近づいてきている。
だが危ういバランスを保ち続けるこの天秤をどちらに傾けるべきか、今日まで持て余してきた。……今でも、まだ。
『どうするか決めかねている時、あるいはどうでもいい時。コイントスのように運命に身を任すのも悪いことじゃないわ』
昼間の、彼女の言葉を思い出す。もし彼女がこの事を知っていたらやはり、そうするのだろうか。それで彼女は、どちらの運命に転んでも満足するのだろうか。
「………………」
財布から、錆びた十円玉を取り出す。親指で弾くと、ピンッと軽い音を立ててコインは回転する。それを手の甲で受け止めた。……しかし、そのまま。中身は見なかった。
きっと、どちらの面が出ても、俺は満足しない。
こうして終わりのない不毛なコイントスを繰り返すくらいなら。…俺は。
「……全く。だいたい鈍すぎなんですよ、あんたは。人の気も知らないで」
眠り姫は、俺の葛藤なんてお構い無しに暢気に眠っている。なんだかだんだん馬鹿らしく思えてきて、俺は中身を確かめることなく手の甲の十円玉を握り締めた。
uncertainty‐不確定‐
「…………何これ。十円玉?」
目覚めた縁寿は、天草から手渡された十円玉を掲げて訝しげに覗き込んでいる。天草はその様子を頬杖をつきながら、にやにやと眺めていた。
「いや、俺の全部をお嬢に委ねてみようかなと思いまして」
「…………あんたの全ては十円玉なの? 随分安っぽいじゃない」
「いえいえ、その十円玉は特別なんですって」
「ふぅーん………」
ま、そういうことにしといてあげるわ。そう言って、縁寿はポケットの中にその十円玉をしまった。
「それより明日、朝早いんだからくれぐれも寝坊しないで頂戴ね」
「さっきまで人の寝床奪ってぐーすか寝てた人がよーく言いますよ」
「うっうるさいわね! あれは不可抗力で、」
「いやぁ…しかしおかげでいいモン見せて貰いましたぜ。昼に続き二度もお嬢の寝顔が拝めましたし?」
「な……っ! あんた、まさか何もしてないでしょうね?!」
「もちろんです。お嬢の心配するようなあーんなことやこーんなことなんて、していませんよ~?」
「あっ…あ、ああ天草ぁあぁぁああっ!!」
「ヒャハハハッ、冗談ですってば」
天草は思う。
今はただ、自分を誤魔化してでも、この関係を壊したくない。
もし、どうしても決断しなくてはならない時が来たら…?
…その時は、
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