メランコリア

「雨って私、好きよ」

開け放った窓に腕を差しのべ、縁寿は言った。縁寿の視線が注がれている指先に、雨粒が落ちてぱちんと弾けた。

一際強い風が吹き込んでくる。

天草の頬にもぱちんと雨粒が弾けた。それを袖で拭いながら、天草は顔をしかめる。

「………お嬢、何も窓を全開にすることはないと思いますぜ。雨が吹き込んだら部屋が水浸しじゃあないですか」

「あら、どうでもいいじゃない。そんなこと」

「よくないです。俺の給料に関わります。生活に関わります。ただでさえ俺、減給食らった身なんですから」

ゆっくりと、振り向く。そして何度か瞬きを繰り返してから縁寿は「ああ、そう…そういうことね」と独り言のように呟いた。縁寿はしばらく口惜しそうに外の景色を眺めて、それから渋々と腕を引いた。窓を閉めると、雨音がわずかに濁る。

袖が含んだ雨水が、ぽたぽたと絨毯に染みをつくる。

「…雨、これから酷くなりそうね」

「…………何か、拭くものを持ってきましょうか」

くい、と。不意に右手首が掴まれた。濡れた感触に肌が粟立つ。

縁寿の手は、いつだって死人のように冷たい。ぎこちなく振り向くと目が合った。

「ねえ天草」

向けられた瞳は、見入ると吸い込まれてしまいそうなくらいどろりと暗かった。

「この雨が上がれば、お兄ちゃんは帰ってきてくれるのかしら」

「…………………は?」

「私、どきどき考えてしまうの。この雨が上がって…そしたら。お兄ちゃんたちが帰ってくるかもしれないって。それがとても馬鹿馬鹿しいことだとは分かっているのに、どうしても考えてしまうの。そしていつも裏切られてきたわ。あの日も、雨が上がって、私は外に出てお兄ちゃんたちが迎えにきてくれるのを待っていた。でもいつまで経ってもお兄ちゃんたちは来なくて、やがて日が暮れておじいちゃんに呼び戻されて仕方なく家に戻るの。毎日毎日、警察から電話が掛かってきてからだって、私は雨が上がると、外に出てお兄ちゃんたちが迎えにくるのを待っていた。まあ……それも、伯母さんが私を引き取ってからは出来なくなったのだけど。…今はもうお兄ちゃんたちの帰るべき家もない。だから、私にはもうお兄ちゃんたちの帰りを待つことさえ、…出来なくなった。それでも、私は雨が降る度に期待してしまうの。雨が上がれば、お兄ちゃんたちが迎えにきて、『遅くなってごめんな。さあ、家へ帰ろう』…そう言って、私の手を引いてくれるかもしれないって」

ねぇ、天草。

この雨が上がれば、お兄ちゃんは、帰ってきてくれるのかしら…?

流れる沈黙。息が詰まる。

絡み合う視線。そらせない。

広がる染み。まるで血溜まりのよう。

天草は考えられる限りの答えを思い浮かべた。

そして、彼が選んだ言葉は。

「…縁寿さん。そのままでは風邪を引いてしまう。すぐに拭くものをお持ちいたしやしょう」

それは天草が縁寿から解放されるためのいちばんの返答。

そして、縁寿を失望させるためのいちばんの返答であった。

「……………馬鹿天草」

縁寿の泣きそうな声に、天草はいつも通りの軽薄そうな笑みをたたえてこう言った。

「ヒャッハ、よく言いますぜ。どちらを答えてもあんたは満足しないだろうに。それにいくら俺が慰めてやったって、あんたの兄さんが帰ってくるわけじゃない。…ま、同情が欲しいのであればいくらでもくれてやりますがね」

それでは失礼します。

縁寿が何か言う暇もなく、天草はするりとドアの隙間を抜けていった。

彼を引き留めようと踏み出した足が、ぐしゃりと重たい音を立てた。