もう少しだった。もう少しで私は、私の望んだセカイを手に入れられるハズだった。
それなのに。どうしていつも、邪魔ばかり。
目前のフェンスを睨み付ける。それは、今の、地面に伏している私には、高々とそびえ立つ壁のようにも見える。
…あと数歩近づいて、あれを乗り越えることが出来ればあるいは…。だがそれも、足首をがっちり掴まれていて、叶わない。
皮膚がコンクリートの熱で焼かれているように感じる。上体を起こそうとして体重を掛けた手のひらに小石がちょうど食い込み、…痛い。
私は、私の中で、痛みを感じることに安堵する気持ちが溢れてしまう前に、唇を固く結んで、それを飲み込んだ。
そして顔だけを後ろに向け、未だ這いつくばったまま動こうとしない彼を睨み付けた。
「……離してください、抵抗はもう…諦めましたから」
そう言うと、彼は意外にあっさりとその手を離してくれた。
逃げるように数歩後退ると、背中にフェンスの感触。先程まであれほど望んでいたものが、この向こう側にある。
…だけど、そのフェンスを飛び越えようという気持ちは、すっかり失せてしまった。
「……あれ、やめるんだ?」
挑発するようなその声に顔を上げると、軽薄そうな笑みをたたえた彼と目が合った。
誰のせいでこうなったと思っているんだ。…分かってるくせに。
……分かってるくせに。
「ええ、そういう気分じゃなくなったんです。……誰かさんのせいで」
「なるほど。それはよかった」
へらへらと、薄っぺらに笑う。その声は不思議と、すとんと私の耳を通り抜けた。
「………………………。あなたは、なんで、とかどうして、とか聞かないんですね」
「あんたは、それを俺に聞いて欲しいんですかい?」
「…いいえ」
「ならいいじゃないか。俺はただ止めたいから止めたんだから。何しろこんな天気のいい日なんだ。そんな日に屋上ダイブを決め込もうなんてな、あんた、お天道さまに失礼だと思わないか?」
「……じゃあ雨の日ならいいんですか」
「いやぁ。それもいけねぇな。俺の寝覚めが悪くなる」
「あなたは自分勝手です」
「そりゃおあいこだろ」
ごろんと寝返りを打ち、暢気に伸びをしている彼を見ていると。なんだか今までの行為が馬鹿らしく思えてきた。
力なくフェンスにもたれ掛かり、ずるずると座り込む。
改めて自分の身なりをよく見てみると、ブラウスもスカートも汚れていて、二つに結ってあったハズの髪は、片側がほどけていてみっともなかった。擦りむいた膝や肘からはじんわりと血が滲んでいた。
………………どうしてさっきは、こんなにも必死だったのだろう。先程までの自分を思い出して、急に恥ずかしくなった。
彼がそうしているように、私も、空を見上げてみた。雲ひとつない澄んだ青空は、今の私には少し眩しい。その青に目を細めながら、一体彼の瞳にはこの空がどう映っているのか、考えていた。
「…………もし。今、私がこのフェンスを飛び越えたら。あなたはどうします…?」
「どうするも何も。あんたはもう飛ばないだろ? だから俺は何もする必要なし!」
「根拠はあるんですか」
「さっき。俺があんたの腕を引っ張ってフェンスから引き剥がした時、あんた、すっげぇ安心した顔してた」
「なっ…!」
「誰かに止めて欲しかったんだろうよ、あんたは」
よっこらしょ、と身体を起こし、彼は立ち上がる。私は間の抜けた顔でそれを見上げることしか出来なかった。
そんなことは気にせずに、彼は大きなあくびをしてから、くるりと背を向けてしまった。本当に、何もする気がないようだ。
「それじゃあ、俺はもう一眠りするんで。あんたももう用がないならさっさと教室戻ったらどうだ? …………うげ、マジかよ。たんこぶ出来てらぁ」
そのままのそのそと日陰まで移動したかと思えば、彼は本当にそこに横になってしまった。
予鈴が鳴ってからも彼を観察していたが、……一向に動く気配はない。
(なに、あいつ……)
そんなことをしている間に、ついに、始業のチャイムが鳴ってしまった。だが、チャイムに急かされるようにぎこちなく立ち上がったものの、このまま教室に戻る気分にはならなかった。
仕方なく、彼の寝ている横に、座り直した。彼は、ちらりと視線を私に向けただけで、再び瞼を閉じた。
「………サボりは不良のはじまりですぜー」
「おあいこですっ」
「ひゃはっ。…ま、そういやそうか」
どこか別の世界のことのように、遠くで体育の授業を受けている生徒たちの声が聞こえる。
折り曲げていた膝を伸ばすと、忘れていたように傷が痛みだした。
…そう。私はまだ、生きている。
それが果たして私の望んだ末の結果であるかは、分からないけれど。
もう一度だけ、空を見上げた。私にはやっぱり、少しだけ眩しい。
……あなたには、この空はどのように見えているのですか?
「たとえば……どこかで私とあなたが出会っていたならば、未来は変わっていたのでしょうか?」
その呟きに、彼は答えなかった。
