いい夫婦の日の話

「まさか、こうしてあんたと鍋をつつく日が来るとは思わなかったわ…」

こたつの上でぐつぐつと煮立つ鍋を二人で囲みながら、縁寿はひとりぼやく。そして掴んだしらたきを珍しそうに眺めてはもくもくと口に運んでいた。

対する天草は、てきぱきと具材を鍋に入れたり取り分けたりとしながら、縁寿の独り言に答える。

「ヒャッハ! 良いじゃないですか、たまにはのんびり過ごすのも……お嬢。お豆腐もどうぞ」

だが縁寿は受け取ろうとはせず、差し出された豆腐をしばらく眺めていた。その顔はどこか難しそうだ。

「…………。…豆腐って、箸で掴もうとすると崩れちゃうのよね…」

「あ、じゃあ俺が、」

「拒否するわ」

「えー……まだ何も言ってないですぜ~?」

「あんたの言いそうなことくらい、だいたい想像つくもの」

「何も言わなくても分かる関係ってヤツですか。へえ…お嬢も嬉しいこと言ってくれるじゃないですか」

「…あんたは言葉を飛躍して受け取りすぎ」

そう言って、縁寿は再びもくもくとしらたきを食べ始めた。

最近、縁寿は天草のからかいをまともに受けるのではなく受け流すことを覚えた。今回も例に漏れず取り合ってもらえず、天草は面白くなさそうに掴んだままだった豆腐を口に運ぶ。「煮込んだやつは箸でも結構掴めるのに」独り言は独り言として受け流される。

……面白くない。

その時何か閃いたらしい天草は再び豆腐を掴み、縁寿ににじり寄る。空いてる左手で縁寿の顎を持つ。食べきれなかったしらたきが何本か手に落ちて熱かったが、とりあえず今は気にしない。

縁寿は食事を邪魔され、不満そうに天草を睨む。

「……ちょっと、その手は何? 離しなさいよ」

「嫌です」

「なっ、」

某お笑い三人組のおでんコントよろしく、縁寿の鼻先で豆腐が揺れる。

焦る縁寿の顔を満足そうに眺め、天草はにたりといやらしい笑みを浮かべた。

「ほらお嬢、あーん」

「やめっ………んぐっむぅう!」

「安心してくだせぇ、豆腐は俺がちゃあんと冷ましておきましたから」

為す術なし。縁寿は抵抗むなしく豆腐を食わされる。

しばらく悶絶する縁寿をゆっくり堪能し、そして豆腐を飲み込むのを確認してから、頬杖を付いた天草が尋ねた。

「……で、どうですかお嬢。木綿の心地好いのどごし加減は」

「………ぐっ…そういう、問題じゃ、ないでしょ…! 急に何すんのよバカ草!」

熱さで涙目になりながら訴える。…が、それに対する天草の言葉は、縁寿の予想を越えていた。

「………だってお嬢、俺の渡す具材ばっかり残すんですもん……これはもう食べ物の好き嫌い通り越して俺のことが嫌いなんじゃないかと」

普段の意気揚々とした姿とはまるで違う、しゅんとうなだれる天草の姿に、縁寿はぐっ…と言葉に詰まる。

………は? 急に何を言うんだこの男は。たかだか豆腐ひとつでそこまで考えるものなの…? なんであんたが落ち込まなくちゃならないのよまるで豆腐食べなかった私が悪いみたいじゃない。

いやいやそれよりも。

私が、天草を…嫌い…?

ああもう、こいつってばもう……どうして………。

「………バカッ! そんなわけないでしょう!? そもそもあんたが嫌いならこうして鍋つついたりなんてしないわ!!」

「えっ?」

「…あ」

思わず口から滑り落ちた言葉に、天草は顔を輝かせ、縁寿はかあっと顔を赤くした。

沈黙する暇も与えて貰えず縁寿はがっしと両肩を掴まれた。先ほどまでうなだれていたのが嘘のように、天草の瞳は少年のように輝いている。縁寿はその瞳を見るのが辛くて顔をそらすのが精一杯だった。

「ねえねえお嬢今なんて? 今なんて言いました?!!」

「うっさい天草。………何も言ってないわよ」

「えー…ホント素直じゃないんだからお嬢は…」

ぶつくさと再びこたつに潜り込む天草を縁寿はしばらく黙って見つめる。そして、再びしらたきを食べるのを再開しながら、何気なく呟いた。

「……天草。その“お嬢”って呼び方、そろそろやめてくれない?」

「………お嬢、?」

「………………」

天草の箸がぴたりと止まる。

だが“お嬢”と呼ばれた縁寿は何も答えずもくもくとしらたきを食べ続ける。

沈黙が続く中、ついに決心した天草は、深呼吸をして、何度か唾を飲み込み、そしてようやく、その言葉を口にした。

「……縁寿、さん………あのー、しめじ、どうです?」

「ありがとう、頂くわ」

葛藤の時間に見合わないほど短い時間で、それは受け入れられた。

恐る恐る、しめじを差し出してみる。しめじを受け取った瞬間、縁寿がかすかに笑ったような気がした。

「鍋、美味しいですね…」

「そうね」

ぐつぐつと、鍋の煮立つ音が響く。

天草の独り言にも、縁寿は相槌を打つようになった。

他愛ない会話を交わして、鍋をつついて。縁寿はしらたき以外に、天草が勧める具材も食べるようになった。

「縁寿さん」

「何?」

「大好きです」

何気なく呟いた言葉。だが、偽りはない。

箸を止めた縁寿をじっと見つめる。縁寿も見つめ返して、そしてふっとそらした。

「………………そう。私も好きよ」

お兄ちゃんの次くらいに。

鍋をつつきながら呟かれた言葉を、天草はどう受け取ったのか。

すっと目を細めて、縁寿を眺めた。

「……ヒャッハ! 戦人さんが相手じゃあ、敵いませんなあ」

「そうよ、出直してらっしゃい」

二人して、鍋をつつく。

「縁寿さん、大好きです」

「あっそ、勝手に言ってればいいでしょ」

返ってくる言葉が、天草はうれしい。