風が荒々しく木々を揺らす。その音に顔を上げた。いつの間にか、厚い雨雲が空を覆っていた。しかし遠くの空は明るく、夕日色に染まっているのが見えた。
…降ってきそうだな。
雨季が近づいてきたのだろうか、最近夕刻のにわか雨が多くなった。今日の天気は、なんとなく、それに似ている。
(ああ、そうだ。あいつの部屋の窓、閉めたっけ…)
今にも降り出しそうなこの天気だ。もしも閉めていなくて、ましてやあいつが昼寝なんてしていたら……そうなれば、後々の事はだいたい想像がつく。
ガイは土に塗れた手袋を外し重い腰を上げた。
「ペール、悪い。ちょっと行ってくる。…すぐ戻るから」
「…もう私一人で大丈夫です。手伝ってくださったおかげでずいぶんとはかどりましたからなぁ」
そう言いながら、ペールは花をひとつ手に取る。ぱちんと小気味のいい音が聞こえた。おそらく彼の手にある鋏で花を切ったのだろう。
「ルーク様のところへ行くのでしょう? …持っていっておやりなさい」
「いいのか? 屋敷の花なのに、」
「ルーク様の部屋からこの花は見えません。しかし彼にも、この花を見て、感じてほしいと…私は思うのです」
遠い目をしてそう語るペールが何を思っているのかなんて、分からない。けれども、彼なりに何か思うところがあるのかもしれない。
ガイは礼を言って花を受け取り、早足で歩き出した。
「ルーク様、ガイです」
空いた手で扉をノックする。扉から入る際には、敬語を忘れてはいけない(しかし、今となってはその行為がひどく馬鹿馬鹿しい)。
人の気配はするが、反応はない。
もう一度ノックして同じ言葉を掛けるが結果は同じだった。
ガイはそういえば、今日はまだあの朱を見ていない事を思い出した。いつもなら、嫌でも目に入るというのに。
もしかしたら、季節の変わり目には体調を崩しやすいルークを心配して、シュザンヌ辺りが部屋にいるよう命じたのかもしれない。実際、今朝メイド達がそのような事を話していたのを聞いた気がする。
だとしたら、ただでさえ屋敷から出られないというのに部屋にまで閉じ込められてしまうのだから、当の本人は相当ふて腐れているだろう。
こりゃ待ってても開きそうにないな…。
ガイはため息をついてノブに手を掛けた。
扉を開けると、冷たい風が横を通り過ぎた。
ルークは、開いたままの窓に手を掛けじっと外を見ていた。部屋は薄暗い。
「…今日はずっと部屋にいたのか?」
「うん。母上が部屋から出ちゃいけないって言ってたから」
「へぇ…珍しいな。俺はてっきり抜け出したものだと思ってたんだが」
「抜け出したよ。…けど、3回とも連れ戻された」
外を見つめたままルークは答える。
入り込んだ風でカーテンが揺れる。そろそろ降りだすのだろう…かすかに遠雷の音が響く。
「ガイこそ、珍しいな」
「…何が」
「いつもみたいに窓から入ってくるかと思ったのに」
ずっと…俺を待っていたのか。だから、そこで待っていたのか。
ルークは振り返らない。
言いかけた言葉を飲み込んで、ガイは花瓶を置いた。淡い青色のがくがそれにあわせて揺れる。
「花を、持ってきたんだ」
「ふぅん…何て花?」
「紫陽花」
「……へぇ」
ルークはちらりと花を見る。しかし興味がなかったのか、視線はすぐに外へ向けられた。
「…窓」
ガイはぽつ、ぽつりと落ちる雨粒を見て思い出す。
「ん…?」
「雨が降りそうだから、閉めに来たんだ」
「…それだけか?」
「ああ、それだけだ」
ガイは手際よく窓を閉め、明かりをつける。程なくして雨が降り出した。
静寂は雨音が引き裂いてくれる。雨粒が次々と窓に叩きつけられる。
耳障りな沈黙の中で、ガイは窓に映ったルークと目が合った。
「ちょっと前のお前なら、怖がって俺の腕を離さなかったのにな」
「…いつまでも子供扱いすんじゃねぇっての」
「そうか? 別にいいんだぜ? 泣きながら俺にしがみついたって」
「なっ…! 馬鹿にすんな!」
急に部屋の明かりが消える。それと同時に空に光の亀裂が生じ、続いて轟音。雷鳴が響き渡った。
「うっ………!」
ルークはその音に思わず目をつぶってしまう。何かを探すように伸ばされた左腕は、ガイの袖を掴んでいた。
「意地っ張り。ホントは怖いくせに」
「るせぇー…」
「だから、初めからこうしてやるって言ってるだろ?」
袖を掴んでいた手を引かれ、抱き寄せられる。ルークは抵抗しようとして、けれど布越しに伝わる体温が心地よくて、結局何もできなかった。
「……ガイは、ずるい」
「そうやっていつも、俺の中に寂しさだけを残して、」
「…いつだって、俺の本当の願いを叶えてくれやしない」
ガイは、何も答えなかった。代わりに、きつく、ルークを抱き締める。
ルークも、これ以上何も言わなかった。
空が、薄明るくなってきた。雨も、じきに止むだろう。
(…けれど、もう少しだけ)
窓辺の紫陽花が、淡く発光する。その姿がひどく幻想的であった。
