初めて彼と出会ったのは、入学式の日の教室。見慣れない顔ばかりが並ぶ教室の中、黒板に貼り付けてある座席表に従って縮こまるように座っていた私は忙しなく目線をあちらからこちらへと動かしていた。その時に、彼の姿が目に飛び込んできたのだ。彼は、おそらく同じ小学校なのであろう人物と親しげに雑談をしていた。目線はその人物へと注がれているのだから、斜め後ろの席からその姿を眺めている私など視界の隅にも映っていないだろう。だが、しかし、私は彼のその姿に釘付けになってしまった。心配そうに眉根を寄せる彼をその友人が背中を叩いて励ます。そうすると、彼は困ったような素振りをみせてからふわっと、柔らかく笑うのだ。その時、まるで彼のいる空間だけがぱっと明るくなったような、そんな印象を受けた。それほどに、眩しい人だった。私は、彼と出会って間もなく、恋に落ちたのだ。
入学式後の自己紹介の時間で聞いた彼の名前を忘れてしまわないようにと、もらったばかりの生徒帳に急いで書き込んでいたのを今でも覚えている。その時は周囲からどよめきの声が聞こえたのを不思議に思っていたのだが、後に彼が有名な財閥のご子息であるという会話を耳にし、妙に納得している自分がいた。
その後も会話をすることは遂には叶わなかったが、私は暇さえあれば、視線は彼の姿を追いかけていた。彼は人当たりも良く、頭も良ければ運動も出来た。それに加えて、サッカーの名門校として知られているこの学校でサッカー部に所属し、且つ1年生にも関わらず1軍入りを果たしたという実力の持ち主でもあった。サッカー部はこの学校の顔でもある。大会で勝利を上げる度に、校内にはその事が大々的に取り上げられた校内新聞が貼り巡らされた。時間が経つにつれて彼の噂は学年中、学校中に広がり、いつしか彼の周りにはたくさんの人が集まるようになった。彼の周りはいつも、きらきらと輝いているように見えた。私は、そんな彼の笑う顔が好きだった。その顔をじっと見ているだけで幸せな気持ちになれた。私はただ、その顔を見ていられればそれで良かった。
雷門が大きな大会の決勝戦まで勝ち進んだ時、一度、クラスでサッカー部……もとい同じクラスである彼の応援をしに行ったことがある。参加は自由とはなっていたが、ほとんどの生徒が行くことになっていた。騒がしいところはあまり好きではなかったのだが、彼の顔が見られるのならと思い、私もついていくことにしたのだ。試合での彼は、教室で見る彼とはまるで別人の様だった。時に敵と激しくぶつかり合い、味方に指示を出す為に声を張り上げ、汗だくになりながらフィールドを駆けている彼の姿を見た時、私の中にビリビリと電流が走ったような気がした。彼は、試合中に笑うことはない。いつだってボールを追いかける眼差しは真剣そのものだった。
どうか忘れてしまわないようにとその姿をじっと見つめ、目に焼き付けようとした。しかし、その努力も虚しく、試合も終わり家に着く頃には焼き付けたはずの彼の横顔はすっかりと薄れてしまっていた。どうにか残せないかと考えを巡らせて、試しに絵に描いてみようと思い小学校の頃使ったきりだったスケッチブックを引っ張り出してきて奮闘してみたが、自分には絵心がないのだなと改めて実感し、落胆するだけに終わった。翌日、例のごとく校内に貼り出された新聞の記事に大きく映っていた彼の姿を見た時に、私も写真を撮れば良かったのだと思いついた。その日の新聞記事は、貼り替えられる直前にこっそりと拝借して切り抜いてある。今でも、私のいちばんの宝物だ。あれから何ヶ月分かのお小遣いを貯めて、いちばん安いものではあったが、ようやく自分だけのカメラを手にすることができた。私がカメラを手にしたのは、この時が初めてだった。
私が撮りたいと思う被写体は、もちろん彼だった。しかし、普段の生活の中でシャッターを押す機会など、なかなか訪れてはくれない。教室の中でシャッターを押そうものなら、盗撮になってしまう。そんな考えが頭の中をぐるぐると回り、しばらくは道端の名前も知らない花や、建物、看板など、なんてことない風景の写真ばかりがメモリを埋めていった。たまに、練習中の彼を熱っぽい視線で眺めている女子の集団に紛れて練習姿を撮ったりもしたが、動く被写体を撮るのはなかなか難しく、ぶれていたり、ピントが合わなかったりといったものばかりであった。しかし、写真こそうまく撮れなかったが、彼に対する思いは強まるばかりだった。彼を見つめる顔が熱くなるのが自分でも分かる。このまま写真が残せないとしても、彼の姿をこうして眺めていられるならば、それでもいいかとも思えるようになってきた。
2年生に進級すると、彼と私のクラスは別になっていた。それによって「同じクラス」という、私にとっては唯一の彼との接点がなくなってしまった。彼を眺めていることが私の生きがいだったのに、これからどうしようかと、クラス分けの貼り出しの前で呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。簡単な始業式を終え、戻った教室では明日の入学式についての軽い説明と、クラスの簡単な自己紹介があったらしい。時間はあっという間に過ぎていった。話の半分も耳に入らないほどに、私は上の空だった。
しかし、次の日、入学式の日、神様は現れたのだ。新入生と名乗るその人物は、私たちの目の前で、名門と言われるこのサッカー部を、たったひとりで倒してしまったのだ。その圧倒的な実力を見せつけられて、多くの部員と、マネージャー全員がサッカー部を辞めてしまったという。私は、チャンスだと思った。運動は得意ではないから、サッカー部の練習はいつも遠くから眺めているだけだった。けれども、マネージャーならば。それならば、私は彼を今までよりもずっと近くで見ていることが出来るのではないか。辞めていったマネージャーたちも、彼に好意を持っていたであろうことは、今までの練習風景を眺めていてなんとなく感じ取っていた。そのマネージャーが、いなくなった。きっとこのチャンスを逃してしまえば、私が彼に近づく機会など二度と訪れないだろう。そう気づいてしまえば、後はもう動くだけだった。放課後がやってきてすぐに、私は足早に彼らのいるであろうサッカー棟へと向かっていた。
理由はそれぞれであったが、私以外にもあと2人、マネージャーを希望している人物がいた。その2人と共に、部員に向かい自己紹介する。その時の彼の反応からするに、どうやら1年の時の私のことは覚えていないらしかった。それでもいいと思った。私は彼のそばにいられるだけで幸せだった。そんなこんなで、私は、サッカー部のマネージャーとなったのだ。
ある日のこと。マネージャーのひとりである水鳥ちゃんに、今まで撮り溜めてきた彼の写真フォルダを見せると、彼女はへぇとも、うへぇともつかない変な声を上げた。
「あんたってさ、口を開けば神サマ神サマって言うし、カメラの中身はこんなだし……、ホントよく飽きないね」
溜め息まじりに言われるその言葉に、だって好きなんだもん、とだけ返す。昔と比べるとカメラの腕もだいぶ上達したので、ぶれている写真は比較的少ない。データに残る彼の顔は、どれも真剣な眼差しで素敵だった。写真を見る度にその時のことが蘇り、胸がどきどきしてしまう。この気持ちを恋と呼ばずしてどう呼べばいいのだろう。どんなに説明しても、水鳥ちゃんはハイハイごちそうさまと冷たくあしらう。話を振ってきたのはそっちの方なのにつれない態度だ。
つまらなそうに、持ってきたお菓子をひとつまみしながら水鳥ちゃんが聞いてくる。
「茜もさ、そんなに好きなら見てばっかいないであいつに告ればいいじゃん」
その言葉にちょっと驚く。……告白。今までそんなこと考えたことがなかった。固まったままの私に、水鳥ちゃんは「だって好きなんだろ?」とさらに言葉を浴びせかけてくる。
水鳥ちゃんの問いに答える前に、私は少しだけ想像してみた。彼と私が手を繋いだり、お弁当を一緒に食べたり、他愛ない会話で笑いあったりする光景が瞼の裏に浮かんでは消えていった。確かにそれでも幸せなのかもしれない。でも、なんだか、ちょっと違うような気もした。
「神サマのことは確かに好き。だけど……私は、付き合いたいとか、そういう感情はあんまりない、かな?」
やがて導き出した私の答えに、水鳥ちゃんは素っ頓狂な声を上げた。どうやら、彼女にとってはあり得ないことらしい。その様子をじっと眺めていたのだけれど、水鳥ちゃんは表情が豊かだから、ころころと変わるその顔を眺めているだけで楽しいなとぼんやりと思った。本当にそれで構わないのかと何度もしつこく尋ねる彼女に、私は胸の内を伝える。
「私ね、笑ってる神サマが好き。でも、その笑顔は私に向けられたものではダメなの。それはサッカー部のみんなだったり、クラスの誰かだったり、そんな誰かに笑いかけている神サマの横顔に、私は胸が高鳴るの。……だから、私だけの神サマっていうのは、きっと、私の好きな神サマとは違うと思うの」
納得したのか、そうでもないのか、水鳥ちゃんはふぅん、とだけ言って、その手を離してくれた。
「そんなの、まるであいつがカミサマみたいだ」
吐き捨てるようにそう言った水鳥ちゃんに、私はポケットから取り出したとっておきの一枚を見せてあげる。
「よければ水鳥ちゃんにも現像してあげる」
「お断りします」
そう言って思いっきりあっかんべーをした水鳥ちゃんの顔にカメラを向けて、私は迷いなくシャッターを押した。
「今度水鳥ちゃんにも現像してあげるね?」
言い終わる前に、こめかみを思いっきりぐりぐりされた。
